断層世代も頑張っています!(その3)

 以前、「誇りをもとう」というテーマで、日本人としての誇りを持つことがとても大切なことで、その一歩として「まず、『戦前・戦後の我国は全て悪、特に軍国主義者』とういうレッテルを完全払拭する必要があるでしょう。」、「復員された近しい戦中派の方々は、知り得る限り、素晴らしい方々ばかりでした。戦闘中のことはあまり口にしませんでしたが、平素の行いは、正義感が強く、勇気があり、誠実・温厚で、姿勢が良く、しかも頭の良い方ばかりで、とっても尊敬できる方々ばかりでした。」というお話をしましたよね。

 すると、昨年から、映画「ゴジラ-1.0」や「あの花が咲く丘で、君と出会えたら」で旧軍、中でも特攻隊が若い人の間でも話題に上るようになりました。そんな今だからこそ、次のような話を伝えるのも家族の長老となりつつある断層世代の勤めだろうと思っています!

 以下、最近ネットでも紹介された神立尚紀氏(カメラマン・ノンフィクション作家)の「「あなたは祖国の為に戦えますか」桜井よしこ氏の炎上発言に思い出す「元海軍主計少佐」が語った「大東亜戦争の大教訓」」の記事を参考にして【引用】しながら大東亜戦争中の出来事を簡単に辿ってみます。

 【先の「大東亜戦争」で、200万名を超える将兵等が戦死・戦病死し、約30万の一般国民が亡くなられましたが、遺族への扶助は、1952年「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が成立するまで無く、】しかも、1946年及び1947年の公職追放に伴い追放者が20万名を超え、1951年のサンフランシスコ平和条約の発効に伴い追放令は廃止されたものの要職は概ね敗戦利得者に占有されたままとなり復員者による要職復帰は困難なままでした。【また、50万人もの空襲被害一般国民に対しても米一粒、柱一本の補償もありませんでした。】

 これらを指導したのが、先の大東亜戦争で戦場に行かなかった者が主体となって構成した当時の敗戦利得者政府でした。

 そして、軍部にも当然非難を免れないことがあります。戦後は特に陸軍の大陸における非人道的な行為とか杜撰な戦争指導についてばかりが誇張して伝えられましたが、海軍の無責任さはなかなか語られてこなかったのです。ここにも、誰かにとって、知られたくない歴史の真実が隠されているよう思えますが、その中に特攻隊誕生の悲劇も隠されているのでしょう。

 さて、【大東亜戦争は、1941年末、真珠湾、マレー半島への日本軍の快進撃に始まりましたが、1942年6月のミッドウェー海戦の敗戦でその勢いが止まり、1942年8月のガダルカナル島失陥からは完全に守勢に転じました。それでも必死に重要拠点は守り通してきたものの、1944年2月トラック空襲を境に、敵を迎え撃つことすらままならなくなり、8か月後に神風特別攻撃隊が出撃することになりました。】

 【このトラック空襲ですが、1944年2月17日から18日にかけて、中部太平洋における日本海軍の一大拠点・トラック島(現チューク諸島)が、米海軍の機動部隊艦上機の大規模な空襲を受け、基地機能を喪失するほどの損害を被ったものです。「特攻の生みの親」とも称される大西瀧治郎中将の副官で特攻の一部始終を見届けた某氏は、「『特攻』を語るならば、必ず、トラック大空襲から語り起こさないといけない」と、しばしば口にしていたそうです。】

 その某氏が語るには、【1944年2月15日、トラック島の第四艦隊司令部が敵機動部隊の無線を傍受し、索敵機2機も未帰還になったことで、近海に敵機動部隊がいると判断した司令部は、2月16日午前3時30分、トラック方面の各部隊に、戦闘配備にあたる「第一警戒配備」を下令し、隊員たちはそれぞれ戦闘配置につき、飛行機は燃料、機銃弾、あるいは爆弾、魚雷を積載し、敵艦隊発見の報告があればただちに出撃できる状態で待機したところ、この警戒配備が、なぜか解除され、『敵機動部隊が近くにいるのはわかっているのに、変だな?』とは思ったものの、飛行場に待機した零戦の機銃弾は、上空哨戒につく数機を残しておろされ、攻撃機の爆弾や魚雷もはずされた。非番の者には外出も許された。」とのことでした。そして、「2月17日、早朝、まだ仮設ベッドに寝ていたわれわれは、突然の『空襲警報!』という声に飛び起き、その空を見上げた時、飛行隊長が、『グラマンだ! 』と叫んだので、指さす方向を見ると、敵の艦上機がトラック上空に飛来しており、完全に奇襲を食った形になりました。」「警戒配備が解かれていたので、トラック島の零戦隊の大部分は機銃弾も積んでいなかった。やがて燃料、機銃弾の準備のできた零戦から順に離陸し、敵機を迎え撃ったが、離陸直後の不利な態勢を襲われ、被弾して火を吹き墜ちるものも多かった。空襲は翌2月18日も続いた。撃沈された日本側艦船は、艦艇10隻、船舶33隻にのぼり、そのほか12隻の艦船が損傷した。まさに真珠湾攻撃のお返しをされたかのような大損害で、失われた飛行機は、南方の戦線へ補充するため基地に保管されていた機体もふくめ、約300機にのぼった。こうして、トラックは、海軍の拠点としての機能を事実上失った。壊滅したトラックに戦力を補充するために、最前線ラバウルに展開していた航空部隊はすべてトラックに引き揚げさせることになり、2年間にわたり南太平洋の最前線基地として、ソロモン諸島やニューギニアからの米軍の侵攻を食い止めてきたラバウルも、ついにその戦力を失った。これは、海軍が、南太平洋での戦いを事実上放棄したということでもあった。】

 【このとき、敵機動部隊が近くにいるのがわかっていながら警戒配備を解いた理由について、某氏をはじめ現場にいた将兵のあいだで広く知られていた「公然の秘密」があるそうです。それは、16日晩、痔疾のため内地に送還される第四艦隊司令長官(トラック島最高指揮官)小林仁中将の歓送会があり、主要指揮官がそこに出席、17日未明に奇襲を受けたとき自分の島に帰れなかったというものです。しかも、せっかく出され警戒配備を解除したのは、この宴会のためだった。】ということです。

 ミッドウェー海戦と同じような上層部の使命に対する弛緩と状況判断の甘さが見られますよね。

 【日本国内で、海軍軍令部を中心に「人間を乗せた体当り兵器」(特攻兵器)の開発がスタートしたのは、トラック空襲の直後のことでした。】

 【大西がフィリピンに赴任する途中の1944年10月12日、台湾は艦上機による大規模な空襲を受け、同日、九州・台湾・沖縄を管轄する第二航空艦隊司令長官・福留繁中将は指揮下のT攻撃部隊に対し、敵機動部隊への総攻撃を下令し、総攻撃が10月12日から16日にかけ、総力を挙げて行われたものの、日本側が失った飛行機は約400機にのぼり、沈没した米軍艦艇は1隻もなかった。(「台湾沖航空戦」と呼ばれる。)】とのことです。愁伯の義伯父も、この航空戦に参加し負傷されました。

 【大西の一航艦長官就任は10月20日付だが、18日の夕刻には、連合艦隊司令部がフィリピン防衛のため、「捷一号作戦発動」を全海軍部隊に下令し、栗田健男中将率いる戦艦「大和」「武蔵」以下、戦艦、巡洋艦を基幹とする第一遊撃部隊が、敵が上陸中のレイテ島に突入、大口径砲で敵上陸部隊を殲滅するとともに戦艦「扶桑」「山城」を主力とする別働隊と、重巡洋艦を主力とする第二遊撃部隊が栗田艦隊に呼応してレイテに突入し、その間、空母4隻を基幹とする機動部隊が、囮(おとり)となって敵機動部隊を北方に誘い出し基地航空部隊は全力をもって敵艦隊に痛撃を与えるという、まさに日本海軍の残存兵力のほとんどを注ぎ込む大作戦だった。だが、航空部隊が敵艦隊に痛撃を与えようにも、フィリピンの航空兵力は、10月18日現在の可動機数が、一航艦の35~40機、陸軍の第四航空軍約70機しかなく、台湾から二航艦の残存機230機を送りこんでも、あわせて約340機に過ぎなかった。大西中将は、一航艦のわずか数10機の飛行機で、栗田艦隊のレイテ湾突入を支援し、成功させなければならなかった。そこで、敵空母を撃沈できないまでも、せめて飛行甲板に損傷を与え、1週間程度使用不能にさせることを目的に採られた戦法が、250キロ爆弾を搭載した零戦もろとも体当り攻撃をかける「特攻」である。一航艦で編成された最初の特攻隊は、関行男大尉を指揮官に、10月21日を皮切りに出撃を重ね、25日、初めて突入、敵護衛空母を撃沈するなどの戦果を挙げた。だが、特攻隊や囮部隊の犠牲を裏切るかのように、栗田艦隊はレイテ湾突入を断念、敵上陸部隊を目前にしながら反転し、作戦は失敗に終わった。】

 何たることでしょう。ここでも、上層部の使命に対する弛緩と状況判断の甘さがあります。

 【だがここで、延べわずか10機の爆装零戦による体当たり攻撃が、栗田艦隊による砲撃戦を上回る戦果を挙げたこともあり、以後、特攻は恒常的な戦法として続けられるようになる。】

 何たる情けなさ!上層部の無能を部下の血と汗で拭おうとする正に『統率の外道』と叫ばざるを得ません。そして、御承知のことと思いますが、【特攻を採用し、命じた側にいた「上層部」の将官や参謀で、自ら責任をとって自決したのは大西瀧治郎中将だけだった。】ことに鑑みるに、海軍の上層部はこの大東亜戦争を真剣に戦っていたとは思えないような気さえしてなりません。

 1941年の秋頃まで、大東亜戦争の戦争目標は、御前会議で決定された、米国とは戦わず南進して英国を屈服させ戦争を終結するというものから、そのすぐ後に、統帥権の独立を利用した海軍軍令部の独走により、否、近衛文麿、風見章等の敗戦利得者並びに敗戦革命指導者と気脈を通じていたハーバード出身の永野修身と山本五十六等が指導した米国民の厭戦気運を醸成するために緒戦において米国をたたくという何ともよく分からない目標が並立してしまい、中途半端な真珠湾攻撃に始まり、その後の無能な戦闘指導によるミッドウェーの敗戦、使命感の弛緩及び状況判断の甘さによるトラック島の敗戦及びレイテ湾の作戦中止等、信じられないような失策が続いてしまいました。海軍軍令部と上層部は米国のためか、あるいは敗戦革命のために大東亜戦争で負けるための作戦を指導していたと言われても仕方がないかもしれません。『あの東京裁判で海軍の指導部はあまり裁かれなかったのにはもしかして裏にそんなことがあったのかもしれない。』と勘ぐってしまいますよね。

 陸軍は、この海軍の無策に足を引っ張られ、当初の戦争目標遂行のための為の作戦を遂行できないまま離島での玉砕を続け、やがては海軍と同じように特攻を始め、終戦を迎えます。

 大東亜戦争始めさせられた我国指導部の責任、負ける戦いを開始し継続させた海軍軍令部・上層部の無責任、海軍に引きずられた陸軍参謀本部・上層部の無作為は是非とも反省し検証することが我国として是非とも必要ですが、まだ十分にはできていません。悲しく思います。

 その一方で、現場の将兵は、これらの上層部の命令を訝しく思うことはあっても、正しく必死になって母国の弥栄を信じ、命をかけて戦闘を遂行されました。特攻隊の方々はその筆頭と言えるでしょう。これらの方々は、日本人の誇りとし顕彰すべき方々なのです。「軍は悪い。」と一括りにするのは、絶対に誤りです。

 島倉千代子さんの「東京だよ おっかさん」の二番の歌詞「優しかった兄さんが田舎の話を聞きたいと 桜の下でさぞかし待つだろおっかさん あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ兄さんも」は、近頃あるテレビ番組で昭和博士くんが紹介してくれたように、戦争で亡くなった兄さんを靖国神社に母と娘がお参りにいく様子と心境を描いています。愁伯はこの歌を聞くといつも涙ができてしまいますが、NHKはこの2番の歌詞を島倉千代子さんに歌わせませんでした。歪められた言語空間が作為されていることを忘れてはいけませんよね。

 そして、2600年以上も続く我国の歴史が続いてきている理由は、将兵や一般人を問わず、いつの時代も、現場で、正義感が強く、勇気があり、誠実・温厚で、姿勢が良く、しかも頭の良い国民が献身的に貢献してくれたからだと肝銘させられます。

 このようなことを近しい人たちに伝えていくことも断層の世代の役割だと思っています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました