戦中派の人たちは凄い!

 最近、愁伯の伯母が逝去しました。子供に恵まれず、御主人を20年ほど前に失ってから一人暮らしで、晩年は、所謂老人ホームに入所されておりましたので、私も単身赴任が解消されてから以降は時折一緒にお話や食事をしておりましたが、ここ2、3年コロナの影響で殆ど接触もままならない状況の中で、18年前に手術した大腸癌が肝臓に転移していることが見つかりあっという間の他界となりました。

 伯母の父親(愁伯の祖父)は、官営八幡製鉄所に勤めており、大東亜戦争時は運悪く今の北部朝鮮にある製鉄所に家族を帯同して勤務しておりました。終戦に伴い、朝鮮半島が38度線で南北に分断され、満州国で蛮行を働いたソ連軍が北部朝鮮にも入ってくるという情報(噂?)から、慌てて北部朝鮮から南に向かい38度線を越えて米軍が占領している南部朝鮮に逃避することになり、会社社員である祖父と家族である伯母たちは別々に逃げることになったそうです。

 乳飲み子であった叔父を祖母が抱いていたため、暗闇の中を伯母が愁伯の父や叔母の手を引きながら、飲まず食わずの数日間に渡る逃避行を続けたそうです。飲水や食料が無いこと、そしてソ連側に見つからないために、若い母子の入水を一例とする悲しい出来事が多数起きたそうですが、なんとか南部朝鮮側に逃れ日本への引き上げ船に乗ることができたそうで、散々の苦労の中九死に一生を得たとの話をよく父から聞きました。

 その伯母は引き上げ後、戦後の苦しい状況の中を懸命に暮らしておりましたが、縁あって元海軍中尉のパイロットの義伯父と一緒になり、八幡製鉄所の近くに遊戯場(今でいうパチンコ店のようなもの)を開業して昭和から平成の中程までを共に生き抜きました。義伯父は台湾沖航空戦で負傷したためその後は内地でパイロット養成所の教官をしていたそうです。伯母が最後まで大切にしていたもののなかに義伯父の海軍パイロット姿の写真がありましたので、伯母の棺の中に納めました。

 昭和40年代頃までの遊戯場では、戦争で心が傷ついた人達が好き放題に暴れる高倉健さん主演の映画のような修羅場がたくさん発生しましたが、オーナーである元海軍パイロットの義伯父が悪党たちに体を張って敢然と立ち向かい伯母が仲裁に入るも止まず警察が到着するまで大混乱が続くという光景を幼少の愁伯はよく覗き見たものです。当時の遊技場は外国人経営者が多く揉め事が多発していたため、その組合長を一時期務めることとなった義伯父はそこでも苦労が絶えない様子でした。そのような中でも伯母夫妻はよく国内外旅行に出かけて、年に数回は従業員を慰安旅行に連れて行っておりましたし、私達甥姪に対してはとても優しく接してくださり、私が成人して休暇で帰省した際は夫婦で繁華街へ連れ立って出かけてくれたり、姪たちには着物を作ってくれたり機会ある度に宝飾品をくださったりしていましたので、他界される時には身の回りの必要品だけしか残っておりませんでした。

 おそらく、戦中派の方々はどこの方面、どの職域、どの立場においても同じような活躍と生き方をしてくださったのだと思います。

 皆さんの身近なところにも戦中派の方々がまだおられると思います。是非お話を伺って語り継いでいただき今後の日本人の心の支えそして誇りとしていただきたいものです。

 周囲の安寧や幸せの為に、財産を費やし体や命を張って懸命に尽力していた人たちが沢山おられたことを、そのような人たちのお陰で今日本が存続していることを、そしてお隣の三つの国以外の多くの国から好感を持たれていることを!

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